渡辺鎌吉師と中央亭
わが国に於けるフランス料理の道を志す者は渡辺鎌吉先生を知らなければならない、西洋料理の会食の基本を確立した人は小村寿太郎閣下の料理人であった宇野弥太郎先生である。
渡辺鎌吉師と宇野弥太郎師は全くの盟友であった。現在日本のフランス料理がまさに世界水準であることは、彼等その友人・弟子達の研鑽が不断に積み重ねられてきた賜物と思います。就中(なかんずく) 渡辺先生は明治の黎明と共にオランダ大使館に奉職しフランス語を学び、熱望していたフランス人コックの勤める調理室に見習いとして入れてもらい、貴族出身の大使夫人をはじめ関係所管の熱心な後援によって 数年で「オランダの鎌さん」の愛称で呼ばれ有名であった。
明治16年(1883年)迎賓館として また社交場として国が日比谷に鹿鳴館を開設した。総坪数8千坪、英国の建築家ジョサイア・コンドル博士の設計で建てられた。現存している綱町三井倶楽部と全く同じ様式であった、渡辺先生はここに料理長として要請されたがこれを辞退し、明治17年(1884年)華族制度が発布され鹿鳴館は宮内庁に払い下げされ、華族会館になった。
渡辺先生は明治22年(1889年)華族会館の料理長に就任し当時の政財界の要人、松下正義、桂太郎、岩崎弥太郎等々の人々に高く評価され支援され、明治23年に丸の内一帯を岩崎弥太郎が開発し、オフィスビルの元祖である赤レンガ造りの建物を建て、丸の内1-1の8号館に渡辺鎌吉の店としてレストラン「中央亭」を開店した。このとき多くのすぐれた料理人が鎌吉の名声の下に集まり、初代料理長大平茂左衛門、その弟子の林玉三郎、長崎で修業した、前田誉次郎、松方家の書生、小園四郎、岩堀房吉である。
中央亭を開店するに至った理由はいくつかあった。義弟の藤田さんという人が東京倶楽部の調理場を自営していた事。しかし最大の原因は、渡辺鎌吉という名人に華族会館に居られたのでは 外務省始め華族が自邸での接待宴席の出張料理が不自由だったので 松方公爵以下の熱心な勧めによったのである。
その当時の大平・前田・林・小園・長島・山口・大西・柴田等々我が国の西洋料理史に残る弟子達を擁し「中央亭」で毎日店と出張で繁盛を極めたとの事です。また、青柳・荒井・国分・小林・長澤・佐藤・氏家・水野が続き 二代目彦太郎先生がドイツより帰朝して面目を加えた。これに目をつけたのが明治屋であった、近代営業として株式会社としたこの時、商法規に暗い渡辺家は株の過半数を譲り大正7年(1918年)を以って引退した。
明治屋経営の中央亭は山口県出身で官界・実業界に知人を多く持っていた竹内氏が専務となり、営業面では奥田氏、岩堀氏を顧問とし大西、荒田、荒井、国分、長澤氏が帰参し第二次大戦まで栄えた。以上が渡辺鎌吉師と中央亭のあらましです。
大正11年(1922年)12月6日偉大なる名人渡辺鎌吉先生は代々木上原の自宅にて家族・弟子達に見守られ木枯らしに舞い落ちる桐一葉を追うごとく静かに永眠された。
明けて大正12年(1923年)2月4日京橋五郎兵衛町にあった日本料理屋「ほてい屋」で岩堀房吉氏の提唱で弟子達が集まり 師を思い出すと共に、友情を深める会を催し、その席で会名を「八重洲会」と決めた。会が発足して半世紀が過ぎいよいよ八重洲会が盛んである。
これ一重に渡辺先生はじめその弟子達が残した言葉を遺訓とし真理として 会の理念になっているからであろう、私たちも先走りせず後輩の良き師とならなければならない。
筆者 滝 昇之助(元八重洲会名誉会長)
記 昭和40年(1965年)